【映画】タクシードライバー
鑑賞記。
周りの映画好きが熱く語ることが多くって、観ないわけにはいかなかった作品です。今、って感じだけれど。
タクシードライバー(1976)
以下あらすじ(引用)
"ニューヨークのタクシー運転手トラビス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)はベトナム帰還兵で、不眠症に悩んでいる。仕事熱心な彼は危険な場所でも運転し、仲間から金に汚いと言われる。そんな、トラビスは大統領候補パランタイン(レナード・ハリス)の選挙事務所に勤めるベッツィ(シビル・シェパード)に一目ぼれし、デートに誘うことに成功したが、トラビスはベッツィをポルノ映画館に連れて行き、怒りを買い去られる。トラヴィスは不眠症の状態で街をタクシーで流しながら、犯罪者や汚れた町を見る。いつしか「この世の中は堕落し、汚れきっている。自分が掃除してやる」と思い始める。そんなトラヴィスはニューヨークのイースト・ビレッジで、ポン引きのスポート(ハーヴェイ・カイテル)と揉めている13歳の売春婦アイリス(ジョディ・フォスター)に出会う。やがて、トラビスは闇のルートで、大量の強力な拳銃を買い射撃の訓練にはげむ。そんなある晩、トラビスは食料品店を襲った黒人の強盗に出くわし、強盗を射殺する。トラビスの胸にある決意が生まれ、大統領候補パランタインの集会に、サングラスとモヒカン刈りの姿で紛れ込んだ・・・・・・・・・・・" https://www.google.co.jp/amp/s/www.reviewanrose.tokyo/article/446196939.html%3famp=1
汚らわしい街を自分が掃除してやる。
この物語を英雄譚として捉える人こそいないものの、終盤の殺戮シーン(ネタバレするんかい)に、ある種のカタルシスを覚えるのは私だけではないでしょう。
この作品の評論をネットで漁っていると、当時アメリカの雰囲気を如実に描いたというものが多いです。主人公トラヴィスを白人層のメタファーとして捉えたものさえある。(さっき引用したサイトです)
歴史に明るくなく、その辺ちょっとわかりません。勉強しようか。
私は、彼が壊したかったものが気になります。
兵上がりのトラヴィスが求めたものは「きっかけ」でした。
汚い世界を壊すきっかけ、
鬱屈した気分を払うきっかけ、
小さい自分を壊すきっかけ。
トラヴィスがアダルトチルドレンであった、これからもそうあり続けるという前提で話します。別に統合失調症でも双極性障害でもいいのだけれど。
彼は他者との関わりが下手です。
惚れたベツィーと会話も噛み合わず、無知を自覚することもしない。挙げ句の果てに、「君は友達が欲しい」と言うトラヴィス。
ドライバーの同僚との関係も築くことができません。親身になってくれた先輩から、「何を考えているか分からない」と言われてしまいます。
さて、ここで問題。
彼はなぜ人との関わりが下手なのか?
A.トラヴィスがコミュ障だから。
そう、彼はコミュ障なんです。
ふざけてないよ。
うーん、どうしてコミュ障なんでしょう。考えるために、もうひとつ仮定しましょう。心理学っぽいことを言うと(心理学を勉強したことはない)、彼は適応障害から、防衛機制「投影」の癖があったと考えてみます。
"投影とは、精神分析の概念である防衛機制の1つです。
感情などの、自分が心の内に抱いている心理的な要素を、自分ではなく他の人が持っていると捉えようとする心の働きを指します。"
https://psychoterm.jp/clinical/theory/projection
「君は寂しい」「君は友達が欲しい」
トラヴィスがべツィーを口説く時に言ったこれらの台詞は、本当は誰のものだったのでしょうね。
さて、少し離れますが。
トラヴィスは自分をヒーローとして、世界に妄想的投影をします。
世界を壊す英雄になり、世間に認めてもらいたかったんですね。
ヒーローとしての自分しか、他者と繋がれないんです。そらコミュ障だわ。
You talkin' to me?
そして子供っぽく、きっかけを他者に求めました。大統領候補(だったかな?)へゴミを掃除してほしいと訴える運転のシーンから始まり、べツィーへのアプローチとか色々。
この辺、私の妄想が追いつかないのですが、最終的に火種になったのはべツィーにこっぴどく振られたことでしょう。そしてトリガーは銃だと思いたい。「銃は子供には扱えない」、そう私は読みました。
武器は力が強すぎます。
トラヴィスは銃の力で、汚いと思うものを排除し、救いたいものを救けました。幼い売春婦アイリスです。
「正義を行い、ヒーローになった」
そうしてトラヴィスは新聞でも持て囃されました。
はい。
英雄譚なわけがないでしょう。序盤で述べた通り。
彼は汚い世界を壊し、小さい自分を壊したかった。殺戮シーンのあとに、こめかみに銃を当てる場面からも窺えます。
……自分に酔っていると言えばそれまでだけれどね。
その世界は壊せたのか?
自分を壊せたのか?
ラストシーン、べツィーをタクシーに乗せたあとにバックミラーに写るトラヴィスの険しい表情から、その答えは出ますよね。
べツィーは再び正義を害するものと捉えられたようです。まあそこからは想像にお任せ、で。
映像作品にしても、小説や漫画にしても、「主人公が共感を得る存在である」ことは売れる条件とされることが多いです。私として、それに共感はしかねますが、一旦置いておきます。
狂気の塊のように描かれた側面があるトラヴィスは、共感を得る存在であったか?
彼はこの世界を壊すきっかけがほしかった。
でも、そう考えたことがない人っているんだろうか。私は妄想するわけです。
宝くじで一発当たらないかな
突然運命の人が目の前に現れないかな
会社爆発しないかな
その妄想って、トラヴィスと同じ色ですね?
(最後のは違うか。)
序盤で書いた「カタルシス」の正体はこれに違いありません。
こんな妄想ができるくらいの豊かな時間を味わいました。余白が多いからこそ、妄想の余地がある。
最後のシーンが、主人公の幻想と考える人もいるそうです。
"最後は幻想シーンといえるのだろうか? はっきりした答えはない。最後に描かれたことは額面通りの出来事ではなく、まるで音楽のように感情に訴える表現だからだ。" (ロジャー・エヴァート、評論家)
この引用で駄文を終わらせます。
単音を旋律と捉えるか、和声の一部と捉えるか。
それが聴く人、聴く時によって変わるのは当然のことでしょう?